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読書感想メモ 「幸福の経済学: 人々を豊かにするものは何か」

キャロル•グラハム著/多田洋介訳 「幸福の経済学: 人々を豊かにするものは何か」を読んだので、感想と今後の研究に活かせそうなポイントをまとめる。

 

まずは面白かったポイント。

経済学者のリチャード・イースタリンが70年代に明らかにしたパラドクス。一国の中では全体的に裕福な人は貧しい人よりも幸福を感じやすいものの、国同士を比較すると一定以上の高所得国は一定のラインを超えるとあまり幸福度が上がらなくなるというもの。このイースタリンパラドクスがそもそも成り立つのかどうかという議論もあるようだが、「裕福な環境でも人間は慣れてしまう」とか「一定程度裕福で満たされると他のことを求める」といったような一般的に考えうる感覚を示す理論。幸福に関する研究でよく出てくるようなので覚えておきたい。

 

著者は本書の中で、幸福の定義について二つの軸を定義している。アリストテレスの幸福は、目的や意義のある人生を送って充実感を得る幸福、ベンサムの幸福は楽しいとか嬉しいとか目の前にある快楽を感じることで得る幸福である。アメリカ合衆国憲法では「幸福は追求するもの」というふうに規定されていて、憲法で保障されているのは幸福を「追求」する権利であり、アリストテレスの幸福的なものが意識されているらしい。

これまでの様々な研究によると、アリストテレス的な幸福はどんな階層でも所得と相関するのに対し、ベンサム的な幸福は一定以上の所得がある層は所得との相関が弱まるということもあるらしく、お金にゆとりがあるほどそれ以外の充実感を求めるらしい。

 

  • 苦しい環境でも人間は適応する(恵まれた環境にも慣れてしまう)

著者らの研究によると、紛争が絶えないアフガニスタンの非常に厳しい環境で暮らす人々も、日々の暮らしの中で感じる幸福というものはちゃんとあり、決してみんなが「不幸だ」と感じていて幸福度が低いわけではないらしい。ただ、「人生が望みうる最高のものかどうか」という質問には、やはり低く回答するらしく、彼らは自分たちが置かれている環境が客観的に見て非常に厳しいものであるということは理解しながらもその環境に適応して幸せになろうと生きているということ。

なぜ人間は適応するのか?というところもいろいろ深い話がいろいろとあるが、人間は不確実な状況よりも、「良いとは言えないまでも安定した状況」に適応しやすいもののようで、急速に経済成長する国では経済成長と人々が感じる厚生に負の相関があったり、リーマンショックを経験した投資家の幸福度は同じ株価の水準でもリーマンショック前よりも下落後に回復したときの方が高かったらしい。

 

  • 感想

どれもこれまでの人生経験で感じたことが理論的に裏付けられた気がして非常に面白かった。「ああ昔こういうことあったけどやっぱりそうなんだ」という感覚。

思い出したのは幼少期の経験と、比較的歴史のある古い会社で働いていた時の経験。

幼少期の経験で思い出したのは、近所のバッティングセンターで財布を盗まれたときの経験。人間の適応について。私が幼少期に住んでいた地域は治安がすごくいいというわけではなかったので、財布を盗まれた時には「なんで盗まれるところにおいてしまったんだろう」とまず自分を責めたりもしたが、「盗まれるかもしれない」と常に思っていたのは環境に適応していた結果だったのだろう。大人になって治安が良いといわれる街に住んだりもしたけど、そういう環境で同じことが起こったら、「なんてひどいことをするんだ」と盗んだ人への怒りが最初に来ていたと思う。ペルー出身?の著者は本書の中でペルーで車のタイヤを盗まれた時には「なんでガレージにしまわずに外に車を出しておいたんだ」と自分を責めたが、アメリカで車を盗まれた時にはただただショックだったそうで、少し共感できた。

もう一つは、比較的歴史のある古い会社で働いていた時の経験。その会社は割と保守的な人が多かったが、給料は結構よかった。その時に「現状にすごく満足しているわけではないけど、他に行くよりはマシ」という消極的に見える理由で残っている人がいて、正直あまり幸せそうには見えなかった(傍から見てそう見えただけで本人は十分幸せかもしれないが・・・)。もしその人が本当にあまり幸せでなかったのだとすると、「金銭的に恵まれていてもそれには慣れてしまって、会社の嫌なこともあるけれどもそれにも慣れているし、不確実なもの(転職したり環境を変えること)は嫌だ、仕事にやりがいはあまりないのでアリストテレス的な幸福も追求できない」ということで、まさに本書で説明されているような人間の性質を表しているのではないかと思った。

 

  • 今後研究していきたいこと

感覚的に思うのは、いま日本にある閉塞感というのは「ベンサムの幸福」を守ろうとしすぎて、「変化に伴う不確実性から来る幸福度の低下」を避けすぎていることではないかと感じている。「なんか将来ジリ貧で右肩下がりだな」とか「なんか働きにくいな」とわかっていても、不確実性が受け入れられないから、それを何とかしようとか変えようという活力が生まれずに、変えるべき点が変わっていかない。

ただ、働き方という観点で見ると、これから世の中変わっていくことは間違いないと思うので、不確実性を受け入れて変化を起こすことにチャレンジする楽しさだったり意義深さをどう理解していくか(=アリストテレスの幸福を追求するマインドをどう持てるか)がとても大事だと考えている。個々人の幸福に対する価値観というものが、環境だったり教育のようなもので変わるのかどうかはわからないけど、一人でも多くの人が「アリストテレスの幸福」を追求したい、と思えるようになるためにはどうしたらいいのかを考えていきたい。